「さきがけ!ヒッキー伝説☆」(2008.1.7)

二葉亭四迷『浮雲』読了。怒濤の鬱展開に、イライラしながら、共感しながら読み進めた。

舞台は明治の初期。戊辰戦争で旧幕府軍が新政府軍に降伏し、さらに新政府軍による廃刀令(1876)などの制定により武士=士族の権威が失墜していた時期に、主人公内海文三は武家に生まれた。息子の境遇を哀れに思った両親は、文三に学問をさせることにより復古王政の時代で独り立ちさせようと画策した。学問は内気な文三の性情に合っていたので、文三はみるみるうちに成果を上げ、知識人となる。彼は十五歳で東京の叔父、園田孫兵衛の家に下宿し、ようやく下級官吏の職にありつく。
文三は孫兵衛の一人娘、お勢に淡い恋心を抱いている。しかし、もともと内気な故、その思いを伝えることが出来ないでいるのだ。お勢の母、お政は娘をのちに官吏として出世した文三の嫁にやろうと考えており、お勢もまんざらではないといった感じなのだが、その曖昧な態度に文三は苦しむ。「お勢さん、貴方は残酷だ」と彼はこぼす。期待させるようなそぶりを見せて、近付くと笑って離れていく――そんなお勢に自分の思いを打ち明けられない文三は苦しくて苦しくてたまらないわけだ。
そんなとき事件が起こる。人員整理により、文三は官庁を免職になってしまうのである。文三は、周りの同僚がやっている「当たり前」のことをやらなかったので免職になった。その「当たり前」とは、課長への「奉仕」である。彼は、能力のあるものが出世していくと考えており、周囲の人間が上司にまるで自分が奴隷であるかのように振る舞う姿を見てばからしいと感じていた。だから、彼は「能力ある自分」が免職されたのが気にくわない。そしてクビになったので行くあてもない。給料も入らないので国元の母親も生活に困るだろう。そんな心情をお政に伝えると、「だからあれほど課長さんの家へご機嫌伺いに行けと言っただろう」と叱咤され、それからだんだんとお政を含め周囲の人間の文三を見る目が冷たくなっていく。
また、この物語にはもう一人官吏が登場する。名を本田昇と言って、彼は課長の家へ英語の家庭教師をしに行ったりしており、非常に世渡りの上手な男である。彼は人員整理を生き残り、とんとん拍子に出世していく。文三は彼のことを「課長の犬」と言って馬鹿にしていたが、自分が免職になった今もうそんなことは言えず、免職を執拗にいびる昇を憎む。昇の台詞は一つ一つに棘があって、ハッキリ言って読者もきっと文三が「畜生」と言う度に一緒になってはらわたが煮えくりかえるに違いないと思う。さらに昇は「俺の力があればお前は復職できる」と文三に持ちかける。文三は当然その信用できない話を蹴るわけだが、その時に彼は「痩我慢なら大概にしろ」と吐き捨て、その言葉に熱くなる文三をお勢やお政は冷笑する。文三はお勢に笑われたことにショックを受け、下宿の二階に閉じこもるようになり、園田家の面々と関係が悪化していくのだった。
明治時代に「引きこもり・ニート・フリーター」などという言葉は存在しない。言葉が存在しないどころか、概念すら存在してはいない。浜口雄幸内閣の緊縮財政により発生した昭和恐慌の時代、「大学は出たけれど」という言葉が流行したように、戦前日本においては知識人階級入りしさえすれば、人生の成功はほぼ間違いなかった。「良い大学」を出ること、「大衆が知らないこと」を知っていることがインテリゲンツィアの条件であり、そんな人々が日本を動かす立場に付く権利を得たわけだ。だから、知識人階級でありながら無職の青年文三は、大衆の目から見て大変奇異に映ったろう。よほどのことをしたに違いない、とも思われたかも知れない。彼らが文三に冷たく当たるのは至極当然のことなので、彼はその応対に疑問は感じない。彼が疑問に感じているのは、「何故学もなく、人付き合いが上手い人間が出世していくのだろうか?」ということなのだ。この小説を読む上でじっくり考えたいポイントは二つある。一つ目は上記の文三の疑問であり、二つ目は文三の生き様である。
まず一つ目について。この問いは時代を超えた普遍的なものであると私は思う。大して頭が良いわけではないが、先生と良い関係を持った生徒が良い評価を得て、大学に推薦合格する現実。能力はあるものの、帝や同僚の不興を買い左遷された貴族がいたという記録。いつも掃除をさぼるが、クラスで何となく人気のある人間・・・。この世の中は、所謂「ウマイ」奴が取り仕切っているのではないかとさえ思えてくる。この小説内でも、お政は文三が閉じこもるようになった頃から昇と親交を深め、娘をもらわせようと考えているし、当のお勢も昇を「文三さんが言うほど悪い人じゃないわ」と弁護して恋心も抱き始めている。文三はほぼ完全に孤立し、自分こそが昇のような人間に流れていく世間の現状をたださねばならぬ人間だと強く信じている、いや、信じたいと思っている。しかし観念的な思索を取り払ってみれば、自分はプータロー、園田家の穀潰し、一方昇は官庁期待の星と、あまりにも対照的な現実が待っている。彼は時に今までが全て夢だったとお勢から告白される夢を見るが、そのような「胡蝶の夢」的なことを考えていても、状態はいっこうに良くならないわけである。ある書評に、この文三は作者の二葉亭四迷自身であるという指摘もある。三度陸軍士官学校を受験し不合格、入学した東京外語大学ではロシア語を専攻し、当時のエリートの条件であった「英語」にはあまり馴染みのなかった二葉亭は、漱石・鴎外のようにワールドワイドに活躍することは出来なかった。そんな彼のルサンチマンが発現したのが、内海文三であると考えるのもある程度は妥当だろう。
二つ目について。文三は下宿の二階に閉じこもり、昇の魔手からお勢を救う手だてを脳内で画策しているが、この生き様は現代の引きこもりにそっくりである。引きこもりなどがメディアの槍玉に挙げられるようになってから暫く経つ。若者は常に既存の体制に不満を持つというのは有名な話だが、現代社会ではそのResistant Energyを極端に外部または内部に向けてしまった若者達がいる。前者が非行少年、後者が引きこもりである。引きこもりは無為に過ごしているわけではなく、世界を改変しようという強い意志を持っている、おそらく、そこら辺をふらついている人々よりは。1995年より放送されたアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」では、突如数人の「14歳」の少年少女達が世界を救う為に駆り出される世界が描かれたが、主人公の碇シンジは引きこもり気味で、たびたびエヴァンゲリオンに乗り込むことを拒否する。しかし、周囲の大人達が「貴方の肩に世界が掛かっている」などという現実味のないことを言うと、彼は途端に乗る気になるのである。ここから分かるように、引きこもりは「自分が駆り出される」事を臨んでいる。世界の救世主として自分が必要とされた時に、自分は外へ出動しようと考えている傾向が強い。普段は、彼らは心の中でひたすら世界を救う為の方法を考えている。それが「自分の精神世界にこもる」ことだと一般認識されているので彼らは「引きこもり」と呼称されるのだ。しかし残念ながら、アニメのように引きこもりの青年一人が世界の救世主に選ばれることはまずない。だから、彼は脳内に自分が必要とされる世界を作りだしてその中で生活し、実際に生きているこの世界は「思案のための世界」として捨ててしまうのである。脳内の理想郷と作戦室を往復する世界観――これこそが引きこもりの姿である。では、『浮雲』に戻って文三のケースを考えてみよう。
文三は昇のような人間が闊歩する今の世の中を腐っているとみなし、そこからお勢を救い出そうと考えている。しかし実際に動いて昇と対決するようなことはなく、頭の中で方法を考えては、それが成功した明るい未来を想像して過ごしている。これはまさに1990年代後半から有名になった所謂「引きこもり」の気質である。彼が誰からも理解されないという状況も引きこもりの現状と似通っている。さらに、少し前に「胡蝶の夢」と書いたが、これ以外にも彼は好んで中国の古典を妄想の中で引用しており、日本人の中には儒教・道教・仏教的世界観しかないと確信している。官吏は近代日本の象徴であり、その近代日本といえば外国の植民地化の脅威に怯えて欧化政策をとり、西洋哲学・思想・宗教を外発的に受容しているではないか。彼はこの点にも我慢成らない。夏目漱石が「日本の近代化は外発的」と批判したが、彼もまた英語に長けるものが出世していく現状に不満を持っていたのだ。この点でも文三はロシア語科に入学してしまった二葉亭と重なる。
「浮雲」――物事が落ち着き定まらないこと。そう二葉亭はこの作品を名付けた。二葉亭はこの作品が当時の世の中にあっていないと認識していたようだが、タイトルに関しては少々認識が不十分であったかも知れない。文三の引きこもり的状況は、果たして「浮雲」と呼べるものだろうか?私は現代的な視点から書いているので、何とも言えない部分はあるが、自らの精神世界に生きることになった文三は、決してその場のノリで引きこもっているわけではないと思う。だから、私は文三はふらふらと無為に空を彷徨う存在と言うよりはむしろ、日陰で生え続ける苔のような存在だと考えたい。
この小説は、現代に生きる我々だからこそ共感を持って読むことが出来る。文学史的な価値(史上初の言文一致体)を無視して、文三の精神構造をじっくりと眺めてみてはどうだろう。若い世代の視点で再評価されるべき佳作である。

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