会議は踊る、されど議事は進まず――これはウィーン会議を言い表した、世界史上で最高の名言の一つだと私は思うのだが、実際に「会議が踊る」ことはよくあることだ。もっとも実際の場合は、各人の主張が対立するというよりは寧ろ、誰一人として発言しないために「踊る」ことの方が多いだろう。意見が全く出ない理由としては、全員が互いに「誰かが意見を挙げてくれる」と思っているとか、「面倒だ」と思っているとか、様々なことが推測されるけれども、本当の問題はその次の段階にあると私は考える。
 議長にとって、議事が進まないのは由々しき事態である。会議というものは、話し合いの場という面と、議長の運営手腕の見せ所という面を持ち合わせている。だから議長は、発言の少ない人にも発言を促すわけであるが、私はこの構図自体に疑問を感じている。特に、議長が寡黙な人から「吸い上げた」意見が、出席者一同の心を掴むものであった場合に、その思いは強くなる。心の中で考えていたとしても、口に出さなければ決して理解されることなどない。寡黙な人の精神運動、つまり思考は、本来絶対に他人に触れることはないはずなのに、議長の「吸い上げ」によって強制的に衆目に晒されてしまったのだ。どうして無理矢理意見を「吸い上げる」必要があるのだろうか。気付かれることなく会議の裏を流れ消えていく予定であった思考を、会議の場に召喚することにどんなメリットがあるというのだろうか。そんな人工的な発言を、意見とは到底呼べない。
 私はこの「吸い上げ」を糾弾する。会議は議長の私物ではない。他人に発言を強要することは、その人の発言に対する意志を完全に無視しており、武器を使わない暴力と言わざるを得ない。だが、全員に沈黙を強制するのも同様に暴力である。「吸い上げ」は取り除くべき害悪に他ならないが、それを取り除くことで沈黙が場を支配することになるのなら、まだ「吸い上げ」た方がましである。私は議事の進行を妨害したいわけではないのである。
 だから、人は精神運動を述べなければならない。述べる、と今書いたが、これには発言の他、著述(記述)も含まれている。精神運動が起こった時点で、どんなに寡黙であろうと、その人は「胸に一物」ある人なのだ。その考えは、必ず自分の精神の外に出さなければならない。考えが確かにまとまっているのに述べないのは、愚かなことだ。思いを発しても理解されないことさえあるのに、述べることをそもそもしないとは、完全なる阿呆の所行である。人は何の為に口を、手を、持っているのだろうか。人は何の為に言語を、文字を、知っているのだろうか。何の為に世界には音を伝える空気が、文字を記すペンと紙が、近年ではブログが、存在しているのだろうか。人は自発的でなければならない。これは、積極的に発言するべきだとか、積極的に文筆活動をするべきだとか、そんな具体的かつちっぽけな主張を意味してはいない。意味しているのは、恐るべき「吸い上げ」を停止する為の根本的な試みである。
 無論、何も考えていないのなら何も述べられはしないだろう。しかし、生まれてから一度も思考したことのない人間など存在し得ないから、人は必ずあるテーマを与えられれば、何らかの精神運動をしているのだ。精神運動を、言語や文字というツールを使って他者に表現するのは、人がコミュニカティヴ・インディヴィジュアル(伝達の為の個人)である以上、人の宿命である。憎むべき「吸い上げ」が台頭してきたのは、人がコミュニカティヴ・インディヴィジュアル性を失って個人化したからだ。人を個人化させたのは資本主義かも知れないし、啓蒙思想かも知れないが、個人化の要因を考察することは問題の本質から外れているから、ここでは考えない。重要なのは、「吸い上げ」を議長――社会の上流階級に履行させているのは、私たち自身なのだということだ。他者との繋がり、関係の中でしか生きていけないはずの人間は、いつしか独りぼっちで立つことが最高善であるかのように錯覚してしまった。それを知った一部の階級は、そのような誤解人たちを「啓蒙」しようと、「吸い上げ」を発明した。たとえ「吸い上げ」をやめたとしても、それだけでは人間の個人化の流れを止めるには不十分なのだと、ここでようやく示された。
 私が上で書いてきた、「自発的であれ」という主張は、究極的には人間の個人化の波を食い止めるための防波堤的役割を果たす。人が再びコミュニカティヴ・インディヴィジュアルに戻れば、「吸い上げ」などというその場凌ぎは自然消滅する。私が「吸い上げ」を害悪と見なす本当の意図は、「吸い上げ」は人間の個人化を如実に示している標識であり、その個人化は害悪だと主張することだ。問題を自分一人で抱え込む一方で、他者との「つながり」を渇望し携帯電話を手にする現代人の営みは、人は本音ではコミュニカティヴ・インディヴィジュアルでありたいのに、無理をして個人化を至上の傾向と思っていることを示唆している。政府や官庁といった上流階級の対策=「吸い上げ」を期待するだけでは駄目だ。草の根の意識改革、すなわち「自発的であろう」が、人が共同体内で安定した位置を占めていると、「つながり」の中で生きているのだと確信を持てる為には不可欠なのである。

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