今年、私の高校では合計で27件の盗難が発生しました。大半が現金の盗難なのですが、私にはこの現状が悲しくて仕方ありません。
 盗むという最低の行為を平気で行う人間の心理には興味がありませんが、「盗難」という現象の起こりについて考察するのは大変意義があるものだと私は思っています。少し考えてみます。
 「どこの社会にも・・・」という表現があります。私の友人も、盗難が校内であったと嘆いていました。友人は他校に在籍しているのですが、そこでもやはり盗難が数件起こるそうです。どうしてどのミニ社会にも盗難という現象が存在するのでしょうか。私はそれが不思議でなりません。盗むという破廉恥なことを考えつく人間が一人もいない社会は存在しないのでしょうか。
 どんな学校でも最低一件は盗難が起こっているであろう現実から考えても、そのような人間が一人も存在しない社会は理想に過ぎないのだと私は思います。では、どこからそのような破廉恥な人間が発生するのでしょうか。生まれつき悪人である人間はいませんね。ですから、生まれつき「盗人のDNA」を所持していた人間が、高校生になってふとした弾みで心の奥に潜む「盗み」への欲望が表面化して、盗人になったと考えるのはまず間違いです。したがって盗人は「なっていた」ものではなく、「なる」ものだと定義的に語ることが可能です。
 次に、「なる」ということについてですが、盗人の誰にでも「初犯」というのがありますから、盗人は「盗人が誰もいないコミュニティ」に勃興すると言えます。勃興の原因としては、その人間を取り巻く環境――家庭環境や学校の状況、友人関係、恋愛感情など――しか挙げられませんが、私はどうして「その人が」盗みに走ったのかという個人的なことには興味がありませんので、その検証は犯罪心理学者に任せて先へ行きます。
 盗みのない平和な世界。これを私は「水面の氷」と表現したい。そこへ、石を持った人間がやってくる。彼は石を水面に向かって抛り、氷の層を粉々に壊します。彼は平和な生活に退屈していた。そんなとき外で盗みというスリル溢れるものが流行していると小耳に挟んだ。彼はそれを実行しなければならないという使命感に駆られた。この時彼は「実行せざるを得ない世界」の住民にすでに成り下がったのだ・・・。
 こう考えるとすると、盗みは地域から地域へ伝播していったのだ!という説を作ることが出来ます。この説を否定する説として、利己心の発現を挙げることも出来ます。自分の利益のために「盗む」。自分のエゴを前面に出しすぎた人間、それが盗人である。彼は周りとの関係から「盗むしかなかった」のではなく、「盗みたかった」のだ・・・というものですが、こう考えると、どうして同時発生的に盗みが全国津々浦々で多重発生するのか疑問です。この説が真実であるなら、盗人一人一人が個人的背景で盗みを行っていることになりますから、どれだけ日本という国家が、いや政府が、いや国民が病んでいるか分かりません。国民一人一人が違う事情で盗みをはたらくようになったら、まさに「ハザード」です。
 しかし、いずれの説も極端であり、完全に同意をすることは難しいと思います。ですから、メソテース的にこの問題を考えるために、私は「盗みとはエゴの伝播である」と結論づけたいと思います。まずは、個人的な理由からの「盗み」が発生し、それが周囲へと広まっていく。(周囲と言っても隣のクラスとか隣の家とかそういう小さな範囲の話ではなく、隣の国とか隣の県とかいった巨大な規模での「周囲」ですが・・・。)その周囲は盗みに個人的理由を付け加えて自己正当化し、隣の盗人を模倣していくのでしょう。この伝播のエネルギー源となっているのは、人々の「不審」感です。「いつか自分も・・・」「いつか自分の隣でも・・・」「まさか自分が・・・」そんな考えがいつまでも人々の頭の隅から消えないので、「盗み」がこの世に存在するのです。誰一人として盗みという行為をイメージできず、盗みそのものを「知らなかった」ら、「盗み」という概念そのものがこの世に存在できなくなるでしょう。卵が先か鶏が先か、みたいな話になって申し訳ありませんが、本当の意味での「盗難」に関する理想社会は、誰一人として「盗み」という行為を認識できなくなることなのだと思います。それはすなわち誰一人としてエゴを持たないことですから、「本当」の意味での理想社会だと思いませんか?

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