サディズムとマゾヒズムは、二項対立的にみなされることが多いが、現実、事態はそう単純ではない。サディズムはマゾヒズムなしには存続しえず、マゾヒズムはサディズムなしには存続しえない。サドとマゾは相互依存体制である。それらは、人間が安定した快楽を日常的に得るために発明した手段なのだ。
 自分がSだと思っていたのにMだったり、Mだと標榜していた者が実はSだったりすることがある。もしサドやマゾが厳密に分割されうるものならば、このような現象は起こらないはずだ。ではそもそも、どうして人は、あたかもサドとマゾが相対する立場であるかのように、自分をサドとマゾのいずれかに分類しようと試みるのだろうか。確かに、サド同士やマゾ同士では持続的な性的快楽は得られないように思えるし、サドとマゾでパートナーシップを築いた方が、凹凸がぴたりと合うに違いないという直感が私たちの中にはある。だが、この直感の出所は、サドとマゾが二項対立的に語られるべきであるという私たち自身の思い込みから来ているのだから、容易に採用すべきではない。大半の人間は、死という究極状態の意識下で自分がサドかマゾかなどということを気にしないだろう。すなわち、実際に死ぬまで相手に虐められたいとか、死ぬまで相手を虐めたいという人間は少数派であり、大多数は小説やゲームという仮想世界フィルターを通してサド・マゾを認識している。ここで、主人公が徹底的に虐め抜かれる作品を愛好する者が自分はMだと標榜していたと仮定しよう。彼は虐められる主人公に感情移入して作品を味わっていると感じているかもしれないが、彼は作品世界の外に位置しており、実際に作品世界内で虐められることはできないから、彼は間違いなく傍観者である。学校内でのあからさまな虐めを傍観する生徒が多い理由として、人間は本質的に残酷なシーンを目撃したいのだと主張する者もいるようだが、私は寧ろ人間はそうすることによって自らを自らの標榜する属性に押し込めているように感じる。Mと思っていた自分の根幹が、実はSだったという発見によっていとも容易く崩落することを恐れているのである。
 傍観者は、虐められる対象を客観的に眺めるという点でSであり、対象に没入して同一視する点でMである。彼は単にMだからという理由で酷い扱いを受けるというシチュエーションに興奮するのではなく、頭の中で被虐対象と自分――本来絶対に虐められるはずのない「他者」としての自分――を強引に同一視し、自分で自分を傷付けて興奮を得ようと画策しているのである。この、極めて自殺的な行為の中に、人間の性的倒錯が垣間見える。他者で居続ければ決して味わうことのない苦痛を、わざわざ傍観することによって自分の中に取り込み、仮想的に被虐の興奮と加虐の興奮を同時に楽しむこと。これは冷静に考えれば狂気の発現である。ドラマで、小説で、映画で、アニメで、ゲームで、漫画で、ノンフィクションで、全ての自分以外の存在の経験談で、私たちは登場人物の心情を酌み取り、時に共感し時に反感を覚え、笑い、涙し、恐怖し、そして現実世界へと戻っていく。悲劇小説を読み慟哭することによって、現実世界での辛い思いが晴れていく現象にカタルシス(浄化)という用語が与えられていることからも分かる通り、昔から人間は自分に無関係の存在を傍観し、次第にその中に没入して仮想的に自分とそれを同一視して生きてきたのだ。理性的観点からの狂気は、人間の生的=性的本質に他ならない。
 だとすれば、人間はSとMという二つの要素を同時的に発現・享受していることになる。人間が客観的他者として作品世界を眺め、その世界に心を動かされる時、その個人の中でサディズムとマゾヒズムは一体化し、その感動はもはやSやMという枠組みでは捉えられない高次の精神として人間を支配している。これは決して、人間が常にサドとマゾという二面性を持った二重存在であることを意味してはいない、というのもその考え自体が、前述のように二項対立構造を前提としたものだからである。サドとマゾは本質的には全く同じものだったのだ。単に理性的観点が現出する形態に着目して、精神という包括存在をこの二つに表面的に分割しただけなのだ。
 SはMに、MはSに絶えず移り変わって現出し、ウロボロスのような円環、つまり相互依存体制をとる精神の中に私たちは浮遊しながら現実世界を生きる。

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