まず暇だったら上の記事『ヘヴィネス・イン・ザ・ダーク』を見てもらいたい。
 読むのが面倒な方もいると思うので、簡単に内容を書いておくと、「個人の肩書きを批判するのは良くない。個人を批判するのがよい、それは不毛ではあるけれども。」というものである。これから書いていく内容は、上記の内容に抵触すると誤解を与えやすい。しかし、矛盾してはいないので、丁寧に見てもらいたい。
 私は権力が嫌いだ。生徒会のような「ミニ権力」から国家権力まで、上に立つもの、上から覆い被さるもの、代表面するもの、それら全てがいわば「憎悪対象」である。しかし、私は権力を行使する者を憎悪してはいない。私はあくまでもそういった「権力概念」そのものを憎悪対象として認識している。そんな私にこう言う者がいる。「そんなこと言ったって、その人の所属集団を否定したら、その人自身を否定していることにはなりにしないか?」私はいつも同じ答えを返す。「ならない。」と。私は生徒会という存在は不要だと考えてはいるが、そこに所属している生徒会員や生徒会長をこの世に必要のない人間だと捉えているわけでは断じてない。それはおかしい、という声がどこからか聞こえてきそうだ。生徒会が存在しなければ、そこに人間が所属することすら出来ない。よって、生徒会存在を否定した時点で、その後の「生徒会員・会長」を議論することは不可能だと。なかなか興味深い意見ではあるが、これは時間軸にスポットライトを当てたものであるから、私の「権力行使者の存在」の議論には影響を与えない。私の言う「生徒会」と「生徒会長」の間には時間的前後関係がない。ある必然性がない。生徒会長になる為には生徒会に所属しなければいけないというわけではない。私は生徒会のない学校を知っているが、そこでは生徒の代表として「生徒会長」のような人間が存在している。リーダーを選出するのに、リーダーの所属集団を整えなければいけない理由などどこにもない。それは近年のタレント知事の誕生を見ても明らかである。すなわち、「権力」と「権力行使者」は無関係である。「権力行使者」は「権力」に内含される必要がないということだ。
 長い回り道をしてしまったが、これで

 「権力概念」≠「権力行使者」 ――――(*)

 が示せた。最初の方の権力の記述で私は一回も「所属」という概念を持ち出していないことを確認してもらって、次に進もう。
 ここで私は一つ思いつくことがある。協力するということについて、協力対象をずらせはしないだろうか。生徒会は嫌いだ、しかし生徒会長のことは認めている。そんな場合があるかも知れない。そんなとき、生徒会と生徒会長は関係ないのだ、という上記の考えを用いて、「生徒会長」に協力するということが出来る(勿論「生徒会」には非協力の立場)。これを広く適用すれば、ある集団を受容することなく中で動く人に協力できるではないか(∵(*))。
 だが、問題点がある。生徒会長に協力することで実際的には生徒会をサポートしていることになっている場合が多いということだ。この点を、「権力概念・行使者分離論」の欠点として挙げる人もいるが、それはお門違いである。私は、政治的・社会的にこの考え方は有効だと主張したいわけではない。この考え方は、単なる「趣味」である。私の混乱した「趣味」に過ぎないのだ。生徒会や国家といった「運営システム」を、「社会・政治」から「趣味」のレヴェルまで落とすための基本的な考え方になるものである。そういった権力への協力や参加を、社会的・政治的責任や是非によって決定してしまうのは時には危険である。なぜなら、皆の意識が一つの権力に集中することによって、ファシズムが台頭する可能性があるからである。ただ、権力に全く協力・参加しなければ、社会の中で生きていくことは出来ない。国の方針に反対だからといって、革命家を気取って破壊行為に及べば間違いなくその行為は容認されない。上の「ヘヴィネス・イン・ザ・ダーク」でも述べた通り、全く協力せず多くの人々に迷惑をかけるのは只のエゴである。だから、ある程度は妥協して協力する必要があるのだが、どうしても妥協したくない(その理由は個人的好悪によるものが多いだろう)場合困ってしまう。そこで上の「権力概念・行使者分離論」を用いて協力対象をずらすのが効果を発揮するのである。自分の協力が、働く多くの役人のためだと思えば、どんなに国家が嫌いでも多少は妥協できるのではないか。無論、国家も役人も皆嫌いだと言ってしまえば、協力は不可能になるが、それは前述の通り社会に生きる者として不適だと私は考える。もし、あなたがこのような複雑な思考過程に至ったことがあるのであれば、是非参考にしてもらいたい。そんなことを考えたこともなかったという人も、個人的好悪と社会的責任の板挟みから自ら逃れるツールとして、この論をお土産に持ち帰ってもらいたい。
最後に、はじめの「矛盾しない」理由について解答の道筋を示そうと思う。
 まず、協力する際についても、「肩書き」に対してではなく、不毛ではあるが「個人」に協力しよう、と読み替えられ、ひたすら個人に向かおう、という私の平生の主張には抵触しない。これはいいだろう。次に冒頭の「権力が嫌い」という記述についてだが、これは私の個人的好悪=「趣味」であるから、何の理由もない。すなわち理論立てた「批判」としては到底受け入れられない。つまり批判とは呼べないわけだ。そうであれば、この記述を「肩書きの批判」とは解釈できないから、平生の主張には抵触しない。その後の展開も、(*)を導く為の手順であるから、「批判対象」についての議論とは言えず(つまり関係ない)、「さっきは個人を批判しろと言っていたのに、もう肩書きを批判しているじゃないか」と言う為の根拠には出来ない。
さらに、(*)が導かれた後であれば、「権力概念=肩書き」≠「権力行使者=個人」だから「個人」を批判しないといつまで経っても批判が概念の表面を滑り、体制は変わらないと結論づけることも出来るだろう。
 相当長くなってしまったが、強引な変形を用いつつ、私の混乱しかけた考えをまとめることが出来たのでよしとしよう。今度は、「所属」や「権力」を離れた人間への好悪について考察してみるのも一興かも知れない。

inserted by FC2 system