「殺人鬼の生命賛歌」(2007.7.23)

人に認められるとはどういう事だろう。誰かが自分の存在を認めてくれるから、私はここにいることが出来る。誰も認識することが出来ない透明人間など、この世界に生きているとは言わないのだ。その「自分を認めてくれる」最も根源的な集団を、「家族」と呼ぶのだろう。「理解し合う」のではなく、「受け入れ合う」のが家族。たとえその家族が世間一般に理解しがたい集団であったとしても、そこに帰属する人間は皆、明確に「生きている」。
 主人公の無桐伊織(むとう・いおり)は女子高生。ふとしたはずみから同級生をバタフライナイフで殺害してしまう。しかし、彼女は至って冷静で、俗に言う悪いこと、「コロシ」をやってしまったというのに、どうしてここまで冷静なのだろう、と自分でも驚く。とりあえず自首しようと決意した彼女の前に現れたのは、殺人鬼集団「零崎一賊」の長兄、零崎双識(ぜろざき・そうしき)だった。彼は伊織に殺人の「性質」を見いだし、零崎ファミリーに入らないかと誘うのだった。
 双識は、「性質」と「才能」は違うと説く。前者は先天的「押さえつける」なもの、後者は後天的な「育て上げる」もの。人間は先天的なものを露呈してしまったら、もう後戻りは出来ない。双識はこのことを説明するため面白い例を出す。「0点を取った人間が10点を取ることは出来るが、100点を取った人間が90点を取ることは不可能だ」と。要するに彼は、伊織の殺人狂としての性質が表に現れてしまった以上、彼女はこれからも「人を殺し続けなくてはならなく」なるので、一般社会では受け入れてもらえないだろうから、こちらの受け入れてもらえる社会へ来い、と勧誘しているわけだ。勿論、殺人は一般的に言って到底許される行為ではない。それは多くの国々で殺人者に対してどれだけ大きな罰が与えられるか検証するだけでも明らかだろう(一応自然権思想の立場からは語らないことにする)。しかし、殺人は彼ら零崎にとっては殺人は「生き様」なのである。彼らは、殺人を仕事にしているわけでも使命にしているわけでもない。まるで殺さなければならない因果にはまってしまったかのように、理由なく人を殺すのだ。そんな殺人者にも、殺人者の世界がある。受容される世界があるのだ。白いTシャツのシミであるよりは、黒いTシャツの上に落ちた墨汁であれ、というように理解すると良いかもしれない。
 この物語は、一見すると殺人集団「殺し名」の一派「零崎」と「早蕨」のバトル物、殺し合い活劇のように思えるが、私はこの物語を、アブノーマルな人間たちを通して、生きることの素晴らしさを描いている「生命賛歌」でもあると考えたい。双識は、普通に生きることはこの上ない幸福であると考える。「普通」=「埋もれること」と考えて、平凡を嫌う若者たちが多い現代社会に対し、彼はこう語る。「普通であることは、他人の迷惑にならないと言うこと。普通でない者は、いつも何らかの手段で周囲を傷つけている。幸福とは、周囲の人間との相乗効果だ。皆が幸せになるためには普通でなくてはならない」と。どう考えても普通でない「殺人鬼」である彼自身が言うのだから、一つ一つの台詞が熱く、重い。その上、彼には過去の記憶がない。彼は気付いたら一人だった。殺人鬼としての性質が、周囲の関係を壊してしまった。しかし、どんな異常者だって人間だから、一人では生きていけない。このときの「生きる」とは生物学的な意味ではなく、社会学的な意味に近い。自分の存在意義が失われた社会で、自分は存在しているとは言えない。そんな絶望の中で、彼は「零崎」に出会った。父、母、兄妹たちのぬくもりを肌で感じた彼は、絶対にこのぬくもりを離すまいと決意した。殺人鬼にだって、家族が必要だ。孤独を知っている双識には、家族の大切さが痛いほどよく分かる。それを失わないために、彼は強くなる。
 また、誰にだって、受け入れてくれる集団がきっと存在するという楽観的な見方で上記の物語を読むことも出来るが、私はあくまでもこの話は、「認められる」事は、自分が認められて生きていくことに否定的になっている限り訪れないのだという、「生きる意志の必要性」を主張するものだと考える。帰属集団を持つ人間は強い。闘っている時、その闘いは家族みんなの闘いだから。結局、双識は本編ラストで死んでしまうが、その死は伊織の「零崎入り」で補われている。双識の愛用していた大鋏《自殺志願》を伊織=《零崎舞織》は受け継いだ。脈々と受け継がれていく「家族」がここに垣間見えた。
 殺人鬼という不条理な存在の生き様に心震え、家族観・人生観には共感すら抱いてしまうというのは、間違いなくこの作品の力ではないだろうか。

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