「Zigzag Highschool」(2006.7.9)

戯言シリーズ三巻『クビツリハイスクール』読了。
今回の舞台は、『学園』という一つの閉じられた空間です。最も中で何が行われているのか分かり易そうで、全く分からない『学校』の特性を生かしたスピーディーな構成でした。
入学したものは多数いるが卒業したものはいない私立澄百合学園、通称『首吊高校』。そこへ、人類最強の請負人、哀川潤の指示に従って、紫木一姫(ゆかりき・いちひめ)という生徒を救出するため潜入したいーちゃん。いーちゃんは、校内で一姫と合流し、学園からの脱出を試みますが、勿論それを上層部が黙って見ているはずはなく、『策士』こと萩原子荻(はぎはら・しおぎ)、『闇突』こと西条玉藻(さいじょう・たまも)ら刺客が次々といーちゃんと一姫を襲います。激しい戦闘の末負傷したいーちゃんは、哀川潤に助けられます。三人は刺客を倒しながら『首吊高校』のトップ、理事長室へ向かいます。理事長室のドアをこじ開け、中に入り、三人が目にしたのは

理事長の解体死体

でした・・・。
今作は、西尾先生自ら『テーマがない』と主張している作品ですが、僕はこれを読んで『正常とは何か』ということを考えました。人を殺してはいけない理由は、これといって存在しないが、人を殺す理由は、ごまんとある。『殺人』が正常であると素で信じている人に、『それはいけないことだ』と言ってみたところで、言われた方は『お前の価値観を押しつけるな』などと言って言った方を殺してしまうかもしれません。つまり、『殺人=悪』という自然法思想も、個人の思想により一瞬にして普遍性を失います。これは、『社会構造』のもろさを暗示しているように思われます。
他人を信じれば裏切られるから信じない。他人を信じられないから一人。一人は寂しい。しかし、一人を抜け出る勇気はない。いーちゃんと一姫はそんな悲しい共通点を持っています。持っているからこそ彼らは惹かれ合うのですが、最終的にいーちゃんは『日常』という変化のない生活への回帰を望み、一姫は『日常』が存在しないことを悟り、壊れてしまいます。これが彼らにおける『分岐』。嫌でも生き続けるということに耐えられるか耐えられないか。人間の強さの個人差がよく現れている描写でした。
また、いーちゃんは、一姫に、昔の友人その他の残像を重ねてしまいます。人に人を重ねることの愚かさ、危うさ、悲しさがクライマックスに向かって溢れ出す所では、胸を締め付けられる思いでした。他人を100%理解することは出来ないが、孤独を避けるため理解した気になり、社会は人間の共同体であると錯覚している人間の哀れさが、強く胸を打ちます。
肯定しすぎても、否定しすぎても、中庸を得すぎても、それは全て『零』への還元であり、初めから何もしないのと同義だ。ならば何もしない方が楽だ、といーちゃんは言います。相手に近づきすぎても、相手から離れすぎても、相手とのなあなあな関係を続けても。結局は全て零。全ての相互関係には互いに思惑の差があり、本当に理解し合っているわけではない。僕が始めに述べた『正常』も、あくまでもその人個人の思うところであり、社会全体の思想の平均値ではない、ということです。無限の正常が混在しているのが『社会』。こう考えると、途端に『社会』が結合力の弱い共同体に見えてきます。社会は毎日崩落している、と言っても過言ではないと思います。崩壊しすぎて零に還元され、実質上『安定』している。その中で、我々はどのように生きていくのか。この作品は、そんな重いテーマを、『学校』というミニコミュニティーを通じて描ききったと言えるでしょう。(作者はテーマなしと言い張っていますが。)
最後に、ミステリーという面からも考察してみます。
今回もおなじみ?密室殺人トリック。理事長室という密室で殺されていた理事長。犯人は、密室をいーちゃんらにこじ開けさせることにより、容疑を彼らにかけることに成功します。このあたりは、西尾先生大得意の頭脳戦、心理戦ですよね。犯人が明らかになるクライマックス部分の盛り上がりは異常です。読めば分かりますが、『やはり』と『どうして』が交錯し、しばらく衝撃に打ちのめされます。ありがちを唯一に変える西尾先生の文章力、感受性に改めて(三度目)感銘を受けました。

少々長くなりましたが、以上で終了です。

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