私は、最近よく言われる「ネットとは顔のない社会である」という言葉に少々疑問を抱いている。ネットの交流では情報発信者、受信者が直接顔を合わせるわけではないから、ネット社会では人格が損なわれやすく、また犯罪にも知らないうちに巻き込まれる危険性がある、とメディアが散々にネット批判を加えるせいで、始めに書いたような認識が起こっているのだと私は思うが、実際、ROM行為といって掲示板やチャットのログを閲覧するだけの行為も存在するから、双方向のコミュニケーションが行われなければ、フィッシング、ワンクリック請求のようなサイバー犯罪に出くわすことはまずないし、誹謗中傷などの心ない一言で傷つくこともない。つまり、ブログやニュースサイトの運営程度の「発信のみを行う」一方向的スタンスを取り、その上でコメントやトラックバックなどのレスポンスを禁止すれば、決して自分は批判などによって汚れることなく言いたいことが言える。
 しかしながら、ネット社会とは現実社会の不適応者が大口を叩く場ではないと私は信じている。なぜなら、ネットマナーとして認められているもので現実では使えないものは少々存在するものの、現実のマナーとして認められているもので、ネットマナーとして一般的に認知されていないものは一つたりとも存在していないからである。ネット上であろうが悪口を書けば嫌われるし、建設的な意見を書けば注目されて評価されるという一般体制が見られる。だから、外部からのメッセージ、すなわち他人の意見や評価をシャットアウトした前述のようなブログやニュースサイトなどの管理人など現実における只のヒキコモリに等しく、まさしく他人に耳を貸さず、しかも自分は批判されたくないという自己中心系人間の典型なのだと私は思う。
 たとえネットが、メディアが書き立てるように「血の通わないコミュニケーション」であって、本当の自分を隠すことが容易だと雖も、実社会においても我々は皆、少なくとも二割程度(適当だが)は本当の自己を偽りの人格で塗り固めて暮らしているのではなかろうか。したがって、情報化社会、ネット社会の処世術云々を語ることは、実社会の処世術にも対応しているのであり、わざわざネット社会でのポジションと、実社会での自分のスタンスを変える必要など全くないと私は思うのだ。「仮想」という概念は、「現実」が存在するからこそその対義語として認められるものだから。
 技術が発展すれば、交流の媒体こそ変化するかもしれないが、所詮人間は人間としか対等にはコミュニケーションできないのだろうから(但し、今のところの予想である!)、ただネット社会を情報ソースのための手段の一つとして考えるのではなく、画面上に点滅する文字列に、バックグラウンドで動いている明確な人間の意思を見いだした上で、ひたすら敬意と誠意を持って向かうべきである。実社会との区別を付けず、「発信と受信を同レベルで行う」という目的を成就することが、ネット社会では肝要である、と私は強く思っている。

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