おちんちん。
 この単語は日本人であれば誰もが知っている男性器、殊に陰茎の幼児語であるが、私は今回、これに新たな意味付けを試みようと思う。
 まず、「お」というのは、尊敬・丁寧を表す接頭語であり、中世以降「御」の変わりとして口語で用いられてきた。現代語の用例としては、「お見舞い」「お手紙」など様々な表現が頭に浮かぶが、ここで一つの疑問が生じる。何故、私たちは「ちんちん」に「お」を付けなければならない、あるいは進んで付けるのだろうか。私たちは果たしてちんちんに敬意を払っていると言えるのだろうか。男根崇拝(金精様)などの例はここでは置いておくと、もし私たちが確かにペニスに敬意を払っているのなら、所謂「露出願望」の男性は存在し得ないし、それを夜道で見せつけられた女性が悲鳴を上げることもないであろう。私たちは小学生になる昔から、性器は常時触っていたり、見せたりしてはいけない「プライベートゾーン」であると教えられてきた。私たちは、その教えを知らないうちに常識化し、性器を不可侵のものとして布で覆い隠してきたのだ。それゆえ、「女性のパンティを脱がす瞬間が最も興奮する」と主張する男性が現れて止まない。彼らは、女性器を隠すパンティという只の布きれを、まるで女神の体を覆い隠すヴェールであるかのように評し、その向こう側にある外陰部を神聖なるものとして崇めているわけであるが(余談だが、谷崎潤一郎は小説の中で、「女」という存在の絶対的な美しさを説いたと考えられる)、女性が男性のブリーフやトランクスに同様の感情を抱いているという話はあまり聞かない。これを、単なる男女の性差と捉えることも出来るが、私はそうだと軽々しく結論付けるわけにはいかないと考える。
 痴女を除けば一般に、女性は亀頭が常時露出した「大人の」男性のペニスをグロテスクだと見なす一方で、「子供の」包茎の色白のペニスを可愛いとさえ認識している。彼女らは幼稚園児や小学校低学年の男子が小川や噴水などで全裸になって遊んでいるのを見ると、おそらく微笑ましく感じるだろう。ショタコン(幼児性愛者)でなくとも、年端も行かない男の子の性器が空中で震えるのを、愛らしいと思うだろう。最初の疑問に戻ると、この問いの答えは、結論から言えば可愛らしいから、愛らしいからということになる。可愛らしい、愛らしいという感情は、人の体の部位のみならず様々な事物を対象としている。そして人がこの感情を抱くものは、自分にとって大切な存在であることが多い。大切だから愛らしいのか、愛らしいから大切なのかはこの際どうでも良く、重要なのはそれが確かに「大切」であるという只一点である。ペット、美術品、初回特典などを大切に思う人は、それらを決してぞんざいに扱ったりはしないだろう。
 女性は男根を「おちんちん」或いは「ちんちん」と、男性は(男性にとっての)同性の性器を「ちんこ」「ちんぽ」などと呼ぶことが多い。幼い頃から高級な玩具を当たり前のように買い与えられてきた良家の子女が、大人に成長してからそれらを「大切」だと感じないのと同様に、人は生まれつき持っているものに愛着を示しにくい。男性にとってペニスはおそらく、排尿という行為を通して、初めて親しみを持つ体の部位の一つだろう。なぜならペニスは、通常状態では様々な顔を見せてくれるからである。例えば、温かく、引っ張れば包皮が伸び、その上自由自在に曲がってくれる。幼児はこのような性器いじりを通して、包皮の反転や勃起を経験し、初めの方で書いたように親に「触るな」と叱られたりするわけだが、最も重要なのは幼児にとっての「勃起」という現象である。幼児には、いつどうして陰茎が固くなり上を向くのかということに関する知識など言うまでもなく存在しないから、自分自身で制御できない肉体の反応は彼にとって新鮮な驚きであるはずだ。自分の体から自分ではどうにもならない「モノ」が生えているという事実に自覚的になる時、幼児は自らの性器に一種の不気味ささえ感じるのである(ショタものの作品内で、勃起を知らないショタに勃起を経験させたとき、彼が「うぅ・・・何か変だよぅ、熱いよぅ」などと発言するのはこのためであろう)。そして、幼児は成長して小学生になる頃には、その不気味さは全ての男性が共有しているものであり、それこそが男性のシンボルであると思い込むようになっている。小学校低学年の少年は、周囲の人間に対して積極的に性器を露出する者が多い。あたかも、ペニスの「不気味さ」を知らない周囲の人間を見下しているかのように、無知なる者たちを啓蒙するかのように。不気味さを男性特有の象徴であると意識した少年は、自らの中に眠る得体の知れないものへの恐怖を押さえ込む為に、必死で「男性」を上流階級のように標榜する。
 だから男性が自分の性器に「お」を付けて話すことは滅多にない。ペニスは男性にとって理解できないもう一人の自分である。私たちが自分の陰茎を指して「息子」「愚息」と言う所以はここにある。外側に飛び出た奇妙な形状の男根を、可愛いかけがえのないものだと評することは男性には出来ない。男性は心から自らの性器を大切なものとは考えられず、ぞんざいな呼び名を付けるわけだ。そう呼ばずに「おちんちん」と口にする男性は自分を可愛い「無知なる」幼児や女性に見立てて、男性にしか理解できないあの不自然さを放棄しようとしている。男性は「男性」であることから常に逃げ出したいと思っているのだが、男性の力で支えられる社会的共同体はそれを許さない。男性は社会内で「男性」らしく振る舞ううちに、誰にもこの逃亡願望を知られたくないと思うようになり、益々マッチョな「男性」像を鎧のように自分に塗り重ねていくのだ。
 ところで、アイルランド系の姓において、“O’”は「〜の息子」を表し、スコットランド系の姓における“Mc-”、イングランド系の姓における“-son”に相当する。カトリック教徒解放法を制定させたDaniel O’Connell、チャーティスト運動の暴力派指導者Feargus O’Connor、映画「バットマン&ロビン」でロビン役を演じたChris O’Donnell、皆アイルランド系である。ここで無理矢理「おちんちん」をO’Chinchin/O’Tintinと表記してみると、「息子」という意味が含まれ、日本語と奇妙な一致が生じる。「おちんちん」という言葉がいつ成立したのかは分からないが、アイルランド語から影響を受けていないことは確かだろう。日本とアイルランドが中世や近世において交流を行っていた形跡などないが、今新たな意味付けとして「おちんちん」という言葉に「息子」という意味を込めてみよう。母親になれる性=女性は息子を愛おしく思い、他方父親になれる性=男性は同性である息子に反発感を覚える。息子は息子で思春期に父親に反発を覚え、母親に惹かれる(エディプス=コンプレックス)。男性にとって男根は「息子」のように完全には分かり合えない存在であり、女性にとって男根は「息子」のように愛おしい大切なもの――。見事な「お」を付ける・付けないの理由に関する説明が完成した。
 もう一つ別の視点から考えてみる。少年が青年期に出会う自慰行為の意味について考察してみようと思う。幼児期に性器が勃起することは理解出来ても、自慰行為に至る前の少年には勃起という「気色悪さ」が「気持ちよさ」に移行するなど想像も出来ないだろう。この際彼がオナニーをどのような経緯で知るかはどうでも良く、オナニーから射精に至る過程の持つ意味に私は注目したい。自分自身では鎮められない勃起状態を、射精行為を伴って「自分自身で」鎮めること。これこそがオナニーの本来の目的なのではないか。少年はマスターベーションを通して、ペニスも自分の体の一部であることを痛感できる。自分の手を動かしエクスタシーに至った結果生じる勃起の萎えは、不気味な存在であった性器を少年が自らの「手で」攻略したことを意味し、少年に自信を与えてくれる。つまり、この瞬間だけは、少年は恐ろしい不快感から解放され、結果的に「男性」からも解放されているのである。だから、少年、いや男性は自分の意識によらない射精(夢精や遺精)、何度精液を放出しても屹立したままの所謂「絶倫体質」にただならぬ嫌悪感を生じる。自慰→オルガスムス→射精→性器の萎えというプロセスは、男性にとって不可欠な通過儀礼の一つと数えて良いだろう、なぜなら男性が鬱屈した社会存在から一人の人間に昇華する為にはどうしても「マッチョな頼りがいのある」男性像を捨てなければならないからだ。
 性同一性障害(GID)、性転換(TS)、女装少年、両性具有(半陰陽・ふたなり)といった概念が広く浸透し、多くの男性に受容されている現代において、私たちは狂おしいまでに「男性」でなくなることに惹かれる。社会が男性に強いてきた、強い精神と肉体を持った「社会の大黒柱」としての「男性」概念は、予想以上に実際の男性を苦しめてきたようだ。その基準から外れた男性は「情けない」「女々しい」となじられ、社会内で属性を失っていく。そんな彼らが社会に忘れられまいと思うなら、「男性」以外の属性を自らに付加するしかない。日本人がアメリカで開催されたマスターベーション大会で優勝したことから、日本=オナニー大国とまで電脳世界で囁かれるようになってしまった昨今の状況は、極めて危険な様相を呈している。「オナニーなら負けない」「オナニーはセックスより気持ちが良い」・・・。そう呟く男性達は皆一様に、社会の「男性」像に不適応を起こしているのだ。増加の一途を辿る中年童貞も、女性と接することで自分が男性であることを強制的に認識させられるのを回避する為に男性が発明した最後の手段なのだろう。しかし、男性が「男性」属性を捨ててしまうことは、現代社会の崩落をもたらすから私はそれには同意できない。また、いくらフェミニズム団体が男女同権を叫んだところで女性の股間からペニスがニョキニョキと生えてくるわけもなく、どこぞの魚のように人間は自然に性転換できないのだから、女性が男性になることはありえない。社会の崩落を防ぐ為には、社会そのものが男性に対する「男性」という固定観念を半コペルニクス的に転回しなければならない。その為の試みの一つとして、男性はもっと自分を積極的に愛しても良いのではないかと私は考える。私は世の男性にナルキッソスになれと言っているのではない。男性であってもペニスを「おちんちん」と呼んで可愛がり、マッチョ以外の属性を持って良いのだと主張しているのだ。
 おちんちん。
 これはまさに魔法の言葉だ。男性が「男性」から解放されるキーワードだ。誰だって無垢な子供時代に戻りたいが、それは現実には不可能である。そんな時、擬似的に自分を幼児までフィードバックさせるのが、この言葉だ。女性には分からない主観性の苦しみを、客観性の愛へシフトさせよう。私たちはもうこれ以上苦しむ必要はないのだ。何千年にもわたって疲弊してきた男性に、私は「お疲れ様」と労いの言葉をかけてやりたい。社会に虐げられてきた多くの男性に次の言葉を捧ぐ。
 おちんちん。

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