皆が良いと思っていることを、敢えて否定してみたくなる。そのたびに、「大多数」という名がいかに便利で、社会的に容認されるマジョリティーかをハッキリと認識させられる。
 私はそのつど打ちひしがれ、実質多数派に屈しているのかもしれない。個人という、あまりにも無力な「考える葦」に過ぎない私が、いくら叫び声を上げたところで、誰も振り向かない。振り向くためには、個人に上乗せして地位や名声が必要だ。政治家のような、日本の社会に直接的に影響する人々の言葉が問題視されたりするのは、大抵この「立場」による。個人的に奴らの思想がおかしいと言って、政治家を叩く人はいないだろう。そう、皆、個人を個人としてバッシングすることの不毛さを心のどこかでは認識しているのだ。
 そんな状況の中で、私は、この「立場上」の個人を叩くことに、ほとんどの人間が疑問を持っていないことが不思議だ。どんなエリートだろうと人格者であろうと、本質的には我々と同じ一人の個人である。だから、たまにその個人の中に、不良品が混ざっていても不思議ではない。たまたま不良品が上流社会に紛れ込んで、よく分からない発言を繰り返しているだけだ、と理解しても、あながち間違いではないと思う。だから、その可能性を指摘して、「あの人はおかしいんだから、仕方がない」などと発言すると、「それは只の諦念だ」と批判を浴びることになる。
 これはどうしたことか。きっと我々はステータスに弱い。東大出のエリートと聞けば、きっと優れていると思ってしまう。それは私も同じだ。だから不良品エリートに失望するなどという意味のない行動を取ってしまうのだが、私はここで一つの意識改革を自ら行おうと思う。それはエリート=能力者ではないと思うことだ。確かに旧帝大を卒業したくらいの若者の大多数はいい人たちであり、人格的にも能力的にも、世の中の大多数を寄せ付けないものを感じさせてくれよう。しかし、それが当たり前という認識をしていると、例外にあたってしまったときに、言いようのない不快感を覚えてしまうから、敢えて大多数の「スバラシキモノ」をレア・ケースと受け取ってみてはどうだろうか。
 我々は別に嫌いな人間と深い関係を持つ必要はない。たとえ仕事で嫌な奴らとチームを組むにしろ、生活まで共同で行う例は少ない。仕事上の人格を、プライベートな人格と混同してはいけないと思う。すなわち、我々は皆二重人格なのだ。常に100%自分をさらけ出して生きている人間は居ない。どんなに見た目実直な人間でも、それがその人の構成ファクターの全てではないと誰もが分かっている。この話は少し置いておいて本の路線に話を戻すが、つまり我々が人生で友人と考えて付き合うのは、一般的に気の合う人物である。少数の友人さえいれば、大多数の嫌な連中は退けられると私は信じている。そんな少数の友人を、まさか社会の大多数に重ねる者はいないだろう。いたら愚かである。友人とは閉じた世界だ。社会という大海に浮かぶ孤島なのである。孤島でありながら、オアシスでもあるのだ。要するに、自分にとって大切な存在を当たり前と考えるか、貴重な者と考えるかで、世の中の見え方はずいぶんと変化する。
 素晴らしい者を孤島と考えていれば、大多数の荒波など怖くない。しかし、素晴らしい者が当たり前の存在と思っていると、その多数派の中で失敗をして、周囲から冷たい侮蔑の視線を向けられたときや、多数派の陰謀に自分が納得いかなかったとき、人は自分が手のひらを返されたような気持ちになる。所詮多数派も分解すれば個人だが、それは物質と原子のようなもので、実際は滅多に離れない。だから、個人レベルでは、社会を理解できない。それは至極当然のことだと私は考える。なぜなら、社会とは個人が動かしているのではなく、大多数の入り交じった感情を一つに集約させる役目の者が動かしているからで、例を挙げれば宗教上の神や君主、それを支える参謀たちなどであるが、それらは出来るだけ普遍性を創り出そうと画策している。どれだけ多くの人間を自分の側に引き込めるかを画策しているということだ。
 ここに大多数の罠が垣間見える。社会の中心には個人がいるのだ。しかし個人は社会を理解できない。社会に所属する一人一人が個人であるなら、このような事態は起こらない。社会における「一人」とは、個人を去勢した、いわゆる賛同者である。そこには自らの意志などみじんも存在していない。只、誰かが流した「これが最も多い意見だよ」と風説に群がっているだけのハイエナである。
 そんなハイエナ的価値観を私は必死で否定したくなってしまうのだ。そんな私だが、「社会の矛盾点を批判する『社会』」が存在すると考えている。皆、おかしいおかしいと思いつつも、数世紀が経過した、等というのは歴史ではよくあることだが、これが私の言う『社会批判社会』である。魔女狩りなどその最たるものだ。誰もあれが良いことだと思ってやっていた者はいないはずだ、それなのになかなか終わらなかった。この「誰も良いとは思わなかったが、変わりはしなかった」というのが『社会批判社会』の特徴であると私は思う。この社会もまた、単なる所属者の意志はここには一切存在していない。革命家のような者が、ハイエナを先導していくまでは、社会は個人では動かせない。何人の人間が魔女狩りに異を唱えて死刑になったことだろう。これで分かると思うが、「大多数」は非常に便利だ。なぜなら、個人の意見を言わないで済む。面倒な考察を全て飛ばして、流行にさえ乗っていれば、自ら傷を負うことはない。
 だが、その反面勿論危険だ。個人が自我を失うことは個人の死を意味する。だから、我々は少しで良いから、ほんの少しで良いから自分の考えを持つべきである。理解者がいなくても良い。それが社会に飲み込まれないことだと私は思う。社会の型にはまらなくてはいけない場面の見極めも難しい。全て反抗していては生きていけない。それは只のエゴだからだ。社会に飲み込まれないことと社会を拒否することは違う。社会の中に出なくては、孤島は見つからない。
 常に社会に疑問を持ち、『よし、私が社会を先導する』という人間が増えて欲しいと切に願う。そこでもし良き理解者が得られたなら、それを「孤島」として大切にする必要がある。理解が当たり前と思っていたら、いつまでも「社会批判社会」から抜け出せない。批判するなら個人を。ひたすら不毛な自分(個人)の土俵に持ち込んで戦うべきである。ひねくれを正当化するために戦うのではなく、自己の維持のために意地を張るのである。きっと、誰も自分の生きる領域を侵食されて嬉しい人はいないはずだと思う。
 そう思って、今日も私は個人を大切にしようと決意して打ちひしがれながら生きている。傷つきやすいが、大変生き甲斐のある生活である。
 社会【荒涼地】に期待するな。

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