過去の天才の偉業を学ぶのは誰でも出来ることで、そこからは何一つとして建設的な考えは生まれないと考える人もいるようだが、私は『人間が好き』という変わった嗜好を持ち合わせているから、そうは考えない。過去の人間と、文字という手段を通して、何世紀もの時を越えて心で対話できるという事実が重要だと思う。読書は一種のコミュニケーションだ。ただ、あくまでも閉じたコミュニケーションだから、そこに凝り固まってしまうのは良くない(読書はあくまでも副教材。実際の人との関わりが人間を大きくすると私は信じている)。
 そういったコミュニケーションを全て廃して一体何になるのか。確かに私たちが学校で現在学んでいる、あるいは過去に学んだ事柄は、全て過去の人々の知的財産、つまり人間の叡知である。人間は学習し、過去を学ぶことで現実のケースへの対応をより多角的に研究できる。私は、過去の知識の暗記に溺れるだけでは、それこそ建設的な考えは生まれないとは思っている。現実の様々な問題を解決するためにはエネルギーが必要だと私は感じている。そのエネルギーを少しでも軽減するために、私たちは常に昔を振り返る。これは単なる懐旧ではない。変化を待ち望むことは誰ででも出来るのだから、そこから一歩踏み出して、自ら『変化』を起こそうという気になってみることが肝要であると思う。先人の考えが現在の自分達と180度異なっているというケースは稀だ。私たちはたったひとつの「ヒト」という種である。だから、生きていた時代が違うと言っても、ど真ん中を貫くものは同じなのだと私は考える。もしそうでなければ、教科書で「論語」や「孟子」、「徒然草」などの古典を学ぶ必要はゼロになってしまう。私たちが全く理解できない異常者は、学んでも現在の問題解決に生かせないので、学校では取り扱わないのだ。
 長々と書いてきたが、つまりは、過去のいわゆる天才たちが築き上げてきた「学問体系」は、それを暗記し、自由自在に扱えるようにする目的ではなく、それを自らの血肉として取り入れ、日頃の何気ない現象の中に、「真理」めいた物を発見する目的で学習させられているのだ、と私は思う。数学などを「こんなの実際役に立たないよ」と投げている諸兄もいることとは思うが、きっとそれは人生のどこかで役に立つはずなのだ。無駄なことは何一つとして教えられていないはずなのだ。単に私たちが学習は凡人から乖離した抽象的で無意味な世界なのだと思いこんでいるだけに過ぎない。
 まだ私は過去の体系をなぞるだけのレベルだ。しかし、いつか現実世界に、学習の意義を見出したい。そう思って、私は日々あらゆる分野で、あまりにも完成された、美しい学問体系を喰らっている。今は、只ひたすら肥えた土壌を自分の中に作り上げたいと思っている。
 これが、私、『天災』が表せる唯一の「天才」への敬意である。

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