自由或いは自在という言葉から私が連想するのは、「自由とは制限がないことである」ということだ。しかしながら、現実において無制限な社会を作ってしまったら、各人のエゴが直接ぶつかり合ってしまい、ほぼ十中八九、まさしく「混沌」と呼ぶべき内乱の時代に突入してしまうだろう。ここから考えるに、我々が言う「自由」とは、一般に緩衝材のようなニュアンスを持っている。個人々々の欲求を最大限考慮して実現に近い形式で提供し、社会に生きる人間が不満を持たないようにする為の、エゴが暴走して他者が不利益を被るのを防止する所謂「クッション」である。その例として相応しいのが、法律という自由の番人だろう。世の中に存在する法律は元々人と人、或いは人と社会との間のトラブルを安全に且つ平等に解決する為に作られた。日本で言う民法も刑法も、一人の人間のせいで多数の人が迷惑しないように、数々の規定が設定されているのだと私は考える。
 その昔、イギリスの哲学者ホッブズは、自然状態においては、「万人の万人による闘争」が発生すると説いた。彼はその防止策として国家共同体の形成を挙げている。彼の理論を肯定的に受け入れれば、「国家」とは近代的個人に自由を権利として与える主体であると言い切ることが出来る。私が前に述べた無制限とは、ホッブズの言う「国家」に反する自然状態であり、ここでは各人が自分の自由を得る為必死で画策している。つまり、なりふり構わず、他人の自由を侵害してでも自分の自由を安定させたいわけだ。ここには、コンサート会場徹夜組の列に割り込むエゴ的人間の行動などが含まれており、常識人達はそういった人の迷惑を顧みず行動する人間に対して、自由性を認めないで寧ろ自分から不快な気分になり、彼らのような者が跋扈するこの社会は、人間として到底扱えない「澱」のたまった混沌であると半ば諦めているふしがある。誰も「混沌」という半無秩序状態を自由状態とは考えない。
 私が思う「混沌」に近い本来的な自由は、ホッブズを初めとする多くの思想家によって明確に「混沌」、分かり易く言えば無法状態と定義されて社会全般とりわけ知識人層に、前述の割り込みの例から分かるように、浸透してしまったのである。先ほどはホッブズの考えを受け入れたが、逆に否定的に「近代的自由など全て幻想なのではないか?」と見てみれば、我々の言う自由がいかに近代啓蒙思想を土台としてイメージされているかがよく分かる。そこで私は、近代的人間観を取り払った見方が、高次元の自由につながると確信している。他人に迷惑をかけることは、血の争いを生み出す可能性がある為出来るだけ避けたいので、エゴ同士がぶつかり合う自然状態とまでは言わないが、それに近い状態が理想だろう。
 近年流行の兆しを見せた「ファンド」「M&A」という企業買収関連の用語を包括的にまとめた概念が一歩進んだ自由なのではないか。インターネットのボーダーレス通信もその概念に含まれると考えられるだろう。言葉通りの「自由競争」・「自由表現」。血こそ流れないものの、これは一種の戦争である。生物学的に見ればダーウィニズムであろうが、社会の中で弱い個人や団体は駆逐されていくのだ。歴史は常に発展するという誤った認識が、過去の模倣を我々に恐れさせている。それは昔の二回に及ぶ世界大戦の印象が大きすぎる為かも知れないが、昔のシステムを学び現在に生かすことは悪いことではない。過去の体制の方がかえって優良であることもある。前に述べた企業買収も、ある意味では他の会社の自由を害するエゴだろうが、私に言わせればこれこそが自由というものだ。昔の自由経済主義は、多くの失業者や過酷な労働環境を生み出したが、その時代の経済システム自体は至ってシンプルで、分かり易かった。格差が生まれてしまったら自由とは呼べないという考えこそ私は非現実的に聞こえる。世の中にはスケールの異なる様々な自由があって、吸収・合併・分離・崩壊を繰り返してこの社会は成り立っていると考える方がより人間の根源的な考えに近いと私は信じたい。こういった現在広く受容されている考えから大きく外れた感覚は往々にして初めは理解されないものである。だから、前述のインターネット通信もマスメディアのような旧勢力から批判されているのではないだろうか。
 これはたかが一例に過ぎず具体性を欠いてはいるが、バッシングこそがやり方の「新しさ」・「先見性」の一つの指標なのではないかと私は思っている。

inserted by FC2 system