以前から私は事あるごとに「芹沢茜」を愛していることを様々な手段で標榜してきたが、冷静になって考えてみると、「茜を愛している」と表現すること自体が一種のテンプレートに成り下がっていたことに気が付いた。
 何度も愛していると繰り返すうちに、周囲の人間は私を「芹沢茜を愛している人間」としてインプリンティングしてしまう。そのような状況に至れば、発信側は「愛している」と記述するだけで固定化された自分のイメージを保つことが出来るし、受信側もその公表を見て、インプリンティングされた相手のイメージと公表内容との意見の一致を確認して安心することができる。しかしながら、これはもはやコミュニケーションと言うよりはむしろ虚構された安定である。私たちは日々変化して生きている。それは肉体的なことでもあり精神的なことでもある。ルドルフ・シェーンハイマーの学説を社会学的に応用するならば、古い皮膚が垢として剥がれ落ちるように、子供じみたわがままが影を潜めるように、私たちは「動的平衡(ダイナミック・イクイリブリアム)」の中にある。久々にあった旧友に「お変わりありませんね」と言うことがあるかも知れないが、実際は「変わりすぎている」のである。少し会わないうちでも相手の全身の細胞は入れ替わり、再び会う時には旧友は別人になっている。しかし、表面上は何も変化していないように思える。これこそが、変化を続けながらも表面的な安定を保つ、「動的平衡」なのである。
 だから、私が二度時間をおいて「茜を愛している」と発言したとすると、その二地点の私の間には時間的にも内容的にも明確な差異が存在していると言える。しかし、読み手はそうは読まない。「ああ、この人は相変わらずの“芹沢スキー”だな」と感じるに違いない。「相変わらず」という思念はイメージの固定化に直結している。固定化=刷り込みが進行すると、相手の公表内容がイメージにそぐわないことが我慢ならなくなってしまう。これは恐るべき事態である。ある発言Aのせいで自分のイメージが勝手に他者に解釈・固定化され、いつまでもその発言Aに自分の存在が縛られてしまうのだから。
 私たちは言うまでもなく変化しない対象の方が頭に思い描きやすい。相手を変化しない対象と認識していた方が精神的に安定するのは明白である。そうであっても、現実問題永遠に安定している物など存在し得ないことは、前述の動的平衡論からも学び取れるし、諸行無常という仏教的世界観からも垣間見ることが出来るだろう。
 受信者は、発信者のイメージを固定化することなくその地点その地点の発信者を認識すべきであり、発信者は公表内容をひな形として利用することなく、その地点その地点での感動を叙述すべきである。現時点の人間を直視する必要があり、決してその人間を過去の表現内容と照らし合わせて最大集合的な思念の塊と見てはいけないと思う。思想体系は、結果的に積み上げられていく物だから、過去に言ったことと矛盾することを今の自分が発言したからといって、思想体系=最大集合が空中分解するはずはない。思想体系内の個々の思想同士は矛盾していたとしてもそれでよい。動的平衡の考えに従えば、人間は内部からフルモデルチェンジする可能性を秘めている。変化したなら変化を楽しめばよい。あらゆる過去の地点の自分に現時点の自分が「監視」されているとしたら、なんとつまらない人生だろう。私は、過去を捨てろ、過去は気にするなと言っているのではなく、過去を意識して現在の自分を積極的に構成するなと言っているのである。コミュニケーションとは、過去の思念の残骸を餌に相手の思想体系を勝手に予想することではなく、ただ現時点の相手そのものとの対話(善し悪しの判断)なのだと私は信じている。
 さて、私も新たな気持ちで茜に向き合って、茜の更なる魅力を浮き彫りにしていこうと思う。

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