人を傷付ける心ない一言がある。人の心を抉る鋭利な言動は主に固定的な物の見方から生じる。例えば、自分が興味のない分野に熱中する人に対して、「よくそんなに夢中になれるね」とか、「こんなのが何で面白いの?」とか言ってしまう。勿論のこと相手を刺激するためにわざと嫌みを言うのなら、相手も売り言葉に買い言葉、思う存分暴れることが出来るが、困るのは意識せずに口から出た言葉に相手が過剰に反応した場合である。そこで自らの非礼を詫び、相手も怒りを静めてくれるならそれでよいのだが、謝罪してもなお相手が食ってかかってきた時、おそらくは何をムキになっているんだ、という半分呆れ半分苛立ちの感情が涌いて来るであろう。というのも、先ほど口をついて出た言葉はあなたが全く気にせずに発した、「いつもの」あなた自身だからだ。繰り返されてきた習慣をなかなか修正できないように、心に深くしみこんだ価値観は一朝一夕には変化させることが出来ないのである。
 価値観の露呈こそが、自らを絶対に退けない状況に追い込む。一度明らかな形で現前した個人の根幹を覆い隠すことは出来ない。だからこそ、絶対的に異なる価値観同士の対決を防ぐために、自らの本心や本音をひた隠しにして私たちは生きている。異なるものに対して「受容」という表現は適切であるが、「理解」という表現は適切ではなく、つまりそれは異なるもの同士の対決に和解の道はないことを示唆している。ただ、全く同じものは現実に存在し得ないわけで、結局そもそも私たちは自分以外の全ての事物に対して「対決」か「受容」の道しか残されていないのである。
 したがって、「自分が言われて/されて嫌なことは、人に言うな/するな」という教えは対決を回避するための最良の方策ではない。自分と異なる根幹を持つ他者が何を考え、何を求めているのかを認識することは出来ず、それを推測しようとしても、自分の価値観に基づいて推測したところで絶対的に異なる価値観に接近できるはずもない。他者の生き方や価値観に共感を覚えたり、影響を受けたりすることさえ、他者の根幹が自分のそれと完全に別個のものとして、自分の身体の外部に厳然と存在しているからこそ、外部から自分の根幹を揺るがし得るのだ。完全に一致したものに対し、シンパシーを感じることはあり得ない。似て非なるアナロジーだからこそ、そのような情動が生じてくるのだ。
 さて、他者への配慮は徳の高さに繋がるのだろうか。この唐突な問いに、今まで述べてきた視座から解決を試みよう。人の傷付くことを言わないことは立派なことだと考えられている。しかし、その判断はあくまでもそう評する一人一人が別々の根幹に寄りかかって行ったものに過ぎない。納得や同意は最大公約数のようなもので、一人一人の思いを拾ってみれば細かな差異があるのは当たり前だ。第三人称の「立派な行為」に対してさえ、人それぞれ評価の基準にズレがあるのだから、相手=第二人称と自分=第一人称の間でズレがあるのも至極当たり前だ。であれば、他者への配慮は自分の徳の高さのアピールとして利用できないことになる。徳の高さを隠れ蓑にして、自分への心ない一言を防ごうとしても、他者が自分の考える「徳」を徳として受容してくれるかどうか分からないのだから、その努力は徒労に終わる。
 では、絶対的に異なる他者にどう向かえばよいのか。私たちは自分の価値観に忠実に生きるしかないのだから、くよくよせずにまず他者に当たってみることだ。その時自分の価値観は欠けたり、砕けたり、変形したりするに違いない。それこそが、コミュニケーションの崇高な意味なのではないか。他者を傷付け、自分が傷付くことを恐れて殻に閉じこもるのはもってのほかだ。人が互いに絶対的に理解し合えないものとしてあるのは、対決と受容を繰り返して自らの価値観を研鑽する使命を帯びているからではないか。故意でない対決は仕様がないものだ。対決が起こっても、互いに対決の意義を認め合わなければならない。人間は、「人の間」にあるから人間であり、人間は集まって社会を形成する。社会性を帯びるとはすなわち人間性を身につけることに他ならず、人間性を身につけるとはすなわち人の間に生きることに他ならず、人の間に生きるとはすなわち他者との対決と他者の受容を経験し続けることに他ならないのである。

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 さて、最近過去の自分の文章を読み直していたわけですが、思うのは去年も一昨年も自分の根底が今と比べてあまり変化していないと言うことです。私は文章を新たに書く時、過去の文章と辻褄が合うようにしているわけではないのですが、私が伝えたいこと、思うことは大体同じ根を持っているようです。
 それは、「人と人との繋がり」「コミュニケーション」「社会」といったテーマです。社会の中で、関係性の中で、身体性の中で生きるとはどういう事か?その為に心がけることは何か?このような問いをいつも自分に課しているのです。また、私はよく「個人」という表現を使いますが、誤解のないように述べておきますと、私はヨーロッパ啓蒙主義に肩入れするつもりは毛頭なく、「理性を持った人間」による「非理性的存在」の支配を容認するつもりもありません。そもそも王権や貴族による支配を受け続けてきた階級が市民革命を通して得た「一人の人間」として生きる権利は、完全にヨーロッパの産物です。人間一人一人を平等で自由なインディヴィジュアル(個人)としなければ、かつての打破すべき絶対王政期に逆行してしまうという恐れが人間の個人化を支えました。デカルトの「我思う、故に我有り」に従い、自分以外の全てのものは機械的だと把握することも個人化の推進力となりましたが、実際私たちは生まれた瞬間から独り立ちして生きてきたわけではなく、両親や親族の庇護の下、他者との関係性の中で「自分」を確立してきたのですから、「本当の自分」「オリジナルの自分」を追究するデカルト的個人主義は限界を迎えることになりました。
 しかしながら、元々個人という概念のない地域にヨーロッパ人は、「理性的かつ普遍的」な個人主義を押しつけたので、日本を含むアジア・アフリカ・中南米諸国は外発的な近代化を強いられる結果となりました。ですから、自分達を個人と見る考えが自発的に出てきたのではない私たちはしばしば、個人という概念に違和感を感じます。ただ、私たちはヨーロッパが作り上げた近代的装置の中で生活を営む以上、戸籍にしろ何にしろ、自分を他者と異なった個人として捏造し、社会に出て行かざるを得ないわけです。私は、そこには妥協せざるを得ませんが、個人概念にアレルギーを起こして苦しむことに対しては、何らかの解決策を提案し続けようと思っています。その一環として、私はメルロ=ポンティの間身体性を参考にして、コミュニケーションの可能性を追い求めています。
 現在の社会が私たちを個人として分断する以上、考察する上で個人という語句を使用しなければならないのは仕方のないことです。以上が、私が個人という言葉を使用する際に頭の中で考えている基本土台です。

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