九〇年代作品という言葉がある。今回はアニメやゲームといった一般的サブカルチャーに限って話を進めていくが、私は、九〇年代作品と二一世紀の作品を明確に区別する指標は、製作サイドの思惑の違いであろうと考える。
 その思惑の違いは、「歌」に顕著に表れている。キャラクターソングという概念がいつからあったのかは知らないが、それが一般認知され個別に商品化したのは二一世紀に入ってからのことだろう。エヴァンゲリオンなどの、所謂「名作」に象徴される九〇年代作品の多くは、主題歌や挿入歌を「大きな物語」、すなわち作品構造全体をイメージさせる為の手段として用いた。だからこそ、作品本編には関わらない実在の人間としての歌手にテーマ曲を歌わせ、主題歌と作品の分離を図ったわけである。作品自体のあらすじ、主題、伏線などが主題歌には盛り込まれており、視聴者は何度も何度もそれを(作品の最初に)お約束のごとく耳にすることによって、その曲を聴けばすぐにその主題歌を「主題歌として持つ」作品の全体構造が頭に浮かぶように馴化される。まさに、主題歌は「主題」性を帯びた存在として君臨していたわけである。
 一方、二一世紀に入ると、声優が歌手業界で台頭を開始した。その作品の主要キャラクターを演じる人間=声優が、作品の主題歌を歌うという事態が発生したのだ。それも、クレジットを見れば分かるように、歌い手は声優ではなく、声優が演じる「キャラクター」であることが多くなった。今や、「God Knows…」を聴いて平野綾が歌っているというイメージが脳内で再生される人間は少ないだろう。あれは「涼宮ハルヒ」の歌なのだ、と認識している人間は恐ろしいまでに多いが、現実問題、「ハルヒ」に命を吹き込んでいるのは間違いなくバックグラウンドに潜む声優、平野綾本人である。キャラクターソングは、「キャラクター」が自分の思いを吐露するものであるから、勿論演じる声優の思いが介在してはいけない。声優の歌声は、その作品世界の中に生息する「キャラクター」の思いという形式で私たちの耳に届く。これは、私たちがキャラクターソングを聴く時、現実世界から大きく引き離されているということに他ならない。なぜなら「ハルヒ」の歌を聴く為には、視聴者自身も「ハルヒ」の作品世界の中に含まれなければならないからだ。キャラクターが背後の声優を覆い隠し、「キャラクターソング」という閉じた作品内作品を作り上げるのが二一世紀の作品の一つの特徴となっている。
 九〇年代作品の主題歌は、視聴者が現実世界におり、客観的に外側から作品構造を眺められるものであったことを思い出そう。九〇年代作品の主題歌は所謂パースペクティヴ的手法であったのだ。しかし、二一世紀に生きる私たちはキャラクターソングを通して、作品構造と一体化している。キャラクターソングの氾濫は、「歌をばら売りしよう」という制作サイドの意思の表れであり、歌が指標から一つの作品として見られ始めたことを意味している。歌を外側から眺めることが出来るうちは、歌は作品世界と現実世界との境界に当たる平面上に貼り付いた掲示物であり標識であった。「これより先アニメの世界」と書かれた標識であった。標識は私たちの精神を作品世界の中に没入させ、作品終了と共に現実世界に引き戻す役割を担い、二つの世界をつなぐ重要な橋となっていた。だが、その標識が作品世界に取り込まれたことによって、私たちは作品世界から現実世界に戻るすべを失ってしまった。ここで、それが良いことか悪いことかは語らない。それに伴って起こっている状況を語るだけである。歌が作品構造の一部をなした為に、歌を販売すること自体が作品を販売していることと同一化した。注目したいのは、キャラクターをまとってその作品世界は現実世界で販売されるという点である。たとえ視聴者が作品世界という夢から覚めないとしても、その夢は最も大きな範囲そのままで店頭に並ぶ。自分が好きなアニメの主題歌を購入する時、その主題歌と対等な位置に購入した視聴者自身がいるというのは面白い。もうこの地点まで到達すれば、歌は作品を象徴する必要などなく、作品世界内のキャラクターを具現化する道具に過ぎなくなる。もっと大胆に言えば、象徴する必要がなくなった時点で、歌は作品構造と無関係でも構わなくなったのである。
 これはゲームの例を出せば良いであろう。二一世紀に入り、KOTOKO、桃井はるこ、大野まりな、MOSAIC.WAVなどの「電波ソング」の歌い手がゲーム主題歌で活躍するようになった。そのうち、彼女らが歌う歌自体が注目を集めるようになり、消費者は、何のゲームの主題歌かということよりも、彼女らが新曲を発表したということが重要だと感じることに疑問を持たなくなった。電波という強烈な分類が登場し、歌い手に焦点が移りゆく二一世紀、ゲーム主題歌は消費者の購買意欲をかきたてるためのファーストインパクトとして利用されるようになったと言えよう。
作品世界の中にそれ自身で完結する、私たちを捕らえて離さないキャラクターソングの世界が存在する一方で、私たちを作品世界に引きずり込む刺激的な主題歌が作品−現実の境界面に待ちかまえている、いやむしろ作品世界から独立して作品世界を内包している。このような多重化した世界と接している、ますます生きにくくなっている現実世界に生きる私たちは、巨大な虚構への魅力を心の奥底に抱えている。それに応えるかのように、製作サイドは私たちを作品世界の中へ誘う。彼らのプロパガンダは、私たちにその中にあたかも永遠に覚めることが許されない、最大限の快楽が存在しているかのように錯覚させる。作品世界の中へ没入することは、現実世界から逃避することではない。そこでエネルギーをもらい、必ず私たちは現実世界へ帰らなければならない。心ここにあらず、という表現があるが、現代の若者の気質はまさにそうで、生活基盤の現実世界には肉体だけを置き、精神を作品世界で解放してそこから出したがらないのである。私は作品世界への没入を糾弾しているわけではない。作品世界と現実世界を行ったり来たりしながら生きてきた人間という存在を、否定することにつながる行動を批判しているのだ。
確かに、作品世界が三重膜構造となってしまった今、没入した精神が現実に戻ってくるのは容易いことではないかも知れない。しかし、さりとて現実生活をおろそかにするのは間違いである。休憩所を私物化して棲み着いてはいけない。作品世界を、日々の息抜きの場として再構成する仕事が現代の私たちには残された。その仕事は、私たちの現実世界での行動によって行われなければならないだろう。毎日を元気に明るく生きること。それが作品世界を救済し、ひいては現実世界を救済する唯一の方法であるのだ。

inserted by FC2 system